ついつい、ドラマ。

つい思ってしまう、つい考えすぎてしまう。ドラマを観て感じたことを書きます。

ドラマを観ようという気持ちが、すんなり起きない。

冬ドラマ第一話の放送が続々と始まっていますね。


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次週が早く来ないかなと待ちきれなくなるほど、毎週楽しませてくれる。そんなドラマというものが昔から好きでした。お気に入りのドラマは何度も観返して、友人同士でその話題で盛り上がり、最終回を迎えればロスになる。次のドラマは何だろうと調べては、あれを観ようこれを観ようとわくわくしていました。少し前までは。

ただ、最近はどうにも、ドラマを観はじめようという気持ちになりにくいのです。第一話を観はじめるのも腰が重く、一週間経って第二話を観るのさえなかなか手が付かない。

家事などで落ち着かない時間帯なので、申し訳ないけれど基本は録画です。第一話をとりあえず観て、おもしろいかどうかそれから判断しよう。そう思って録画はしています。でも観る気が起きない。

見逃し配信はとても重宝しています。何度も観た過去のドラマの再配信などはアップされればすぐにでも観ようと思うのに。

 

既視感たっぷりのお決まり路線で、放送前のあらすじからすでに結末が見える……。それも理由のひとつだと思っています。

題材が深刻で、こんなご時世に気持ちが落ちるようなドラマをわざわざ観ようとは思えない。それもあります。

 

ですが、お決まり路線だろうと、題材が深刻だろうと、心情やその背景を丁寧に描いてくれるドラマであれば、惹き込まれると思うのです。そこにはひとつやふたつ、誰しも共感できるものがあるはずなのですから。

 

現場の大人の事情は私には計り知れません。

私が観たいものは、丁寧に作られたドラマ。それだけです。

心が動く。『ファイトソング』第一話・第二話【ネタバレあり】

TBS火曜ドラマ『ファイトソング』第一話・第二話

 

【※以下、ネタバレがあります。ご注意ください】

 

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「どうして私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの。神様ひどいって思ってます」

多かれ少なかれ、そう思ったことのある人はいるのではないだろうか。

主人公の彼女の出来事と比べたら小さい悩みなのかもしれないが、悩みというのは大小の問題ではない。ちょっとした引っ掛かりだろうと、悩みはそこから膨らんでいく。

 

たった一曲に支えられてきた彼女の人生は計り知れないが、その曲の作者に偶然出会い、弾き語りを聴いて、大粒の涙を流す。

そんな彼女を見て、その作者が「俺と付き合ってくれませんか」と言ったところで第一話が終わる。ここまで彼女の過去を丁寧に描いていたのに、そんな軽い終わり方があるのか?と落胆した。

翌週、第二話を観て、安堵した。ドラマのご都合主義と言えばそれまでだし、今後の展開のポイントがすでに散りばめられていることも分かる。それでもやはり、ここ最近多く見かける既視感たっぷり恋愛ドラマとはひと味違うと感じている。

 

彼女からその話を聞いて、施設の仲間たちは息を吞んでいた。泣いたことなどなかった彼女が号泣したことに驚いたようだ。

 

「心が動いたんだね」

ここから何か動くかもしれないね、と施設長は嬉しそうだった。

心が死んでしまうことは往々にしてあると思う。それこそ多かれ少なかれ、きっかけが何であろうと。そこから引き揚げてくれる何か、それを掴んで逃してはいけない。実際ここから物語は動いていく。

 

「心が動く」方を選択していけば、何か動き出すのだろうか。

コロナ禍で、行動的にも「動く」ことを制限され続けて二年以上が経つ。スポーツで身体を動かす、旅行でリフレッシュする、温泉に入って癒される、今まで自由に出来ていたことが、気軽には出来なくなった。それによって心の動きまでもが制限され続け、それに慣れ切ってしまった気がしている。もちろん、状況を見て対策を取って行動できることもある。だがそれには今まで以上に慎重に計画して状況を注視する必要があるのだから、日々に追われている社会人がそれを実行に移すのは並大抵の労力ではない。

 

それでも、このドラマを観て、何か「心が動く」ものを見つけたいと思った。

何かが動き出すのであれば、私もそれに出会ってみたい。

心が動いたその先へ連れ出してくれるものに出会うために、まずはアンテナを張るところから始めようと思う。

 

 

特別お題「わたしの推し

推しドラマ『ファイトソング』

味方に出逢える奇跡。『恋せぬふたり』第二話【ネタバレあり】

NHKよるドラ『恋せぬふたり』第二話

【※以下、ネタバレがあります。ご注意ください】

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長女に結婚してほしい、結婚が幸せだと信じて疑わない家族。

家族側の固定概念も、わからなくはない。

自分たちはそうして幸せを築いてきて、私たちはそうして生まれて育ってきたのだから。

 

なれそめは?いつ結婚するの?もっとくっついちゃいなよ、と何も考えずぐいぐいくる妹。

恋愛しない人なんかいないんだから。男女が一緒に住んでいたら結婚するでしょう、と自分の価値観をストレートに押し付ける母親。

LGBTっていう、あれですか?と知ったような口をきいて一括りにする妹の旦那。

わかったからもう家に帰ってきなさい、と本当は理解できていないのにこの男に何か吹き込まれたんだろうとでも言いたげな心が透けて見える父親。

 

「こういう話の終わりが、『こういう人たちもいるんだなぁ』で終わらないのはなぜなんでしょう」

 

このやり取りを目の当たりにして、私も同じことを思っていた。

その短いやり取りですべてを理解してもらえるなんて思わないし、そんなことはありえない。彼女だってすべてを理解できているわけでもないし、伝えられてもいないと思う。

それでも、あぁそういう人もいて、それがこの子なんだ、そうなのね、くらいの感じで終わってくれていいのではないかと。

大切な人たちの前で自分らしくいたいと思うのは、わがままなことではないと思う。

 

 

「家族というか、『味方』という感じですかね」

 

それが最も腑に落ちる言葉だけれど、その言葉をおおっぴらに使うことは恥ずかしい様子だった。

そう、これからの人生に欲しいのは、味方なんだと思う。

家族という形にとらわれる必要もないし、恋愛とも友情とも違ってもいい。

もちろん世間一般に、友情が恋愛感情に変わって、結婚して家族になって、さらに家族が増えたりして、その人たちが一番の味方になってくれたら、そうなれたら一番自然な形なのだろうと思っている。

でもそうやって長年一緒の時間を過ごした家族=味方になっているのかと考えたら、やはり家族≠味方なのだ。だって、どんなに愛し合って、育ってきた環境が一緒でも、彼女の家族のように価値観の違いは必ず生まれるのだから。

 

 

「奇跡のように感じたんですよね」

 

味方になれるような相手と巡り会えることは、本当に奇跡のようなことだ。

現に私はまだ巡り会えていない。と思う。たぶん。

自分の価値観を誰かに話すことは、勇気のいることだ。

相手が本当のところどう考えているのかなんてわからないし、導入で共感できても話を進めていくうちにズレが生じてくるなんてことは往々にしてある。

何かのきっかけがあって、お互いの話をじっくりと確かめ合えることが出来て初めて、相手のことを理解できそうな兆しが見える。そのくらい慎重に、かつ大胆に、距離は縮まっていくものなのだと思う。

だからこそ、奇跡なのだ。

そのきっかけがどこにあるのか、どうしたら生み出せるのか。私も知りたい。

 

 

特別お題「わたしの推し

家族になりませんか。『恋せぬふたり』第一話【ネタバレあり】

NHKよるドラ『恋せぬふたり』第一話。

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世間一般に言われる、いわゆる「結婚適齢期」に当てはまる男女は、その世間からの目が本当にしんどい。

「結婚しているのか?」

「いい人いないの?」

「あの人なんてどう?」

実家、親戚、その周辺地域での居心地の悪さは尋常じゃない。そこに立っているだけで好奇の目に晒されている気分になる。

 

【※以下、ネタバレがあります。ご注意ください】

 

実際、結婚に興味がないわけじゃない。いい人がいれば考えるし、ドラマのように他人に性的興味を持てないわけじゃない。一緒に歩んでいってくれる人がいるならばそれに越したことはない。

出会いは確かにない。それが甘えだということも分かっている。お話をいただいて、相手と会ったこともあった。だからといって、年齢もぴったりだし、職業も申し分ないし、フリーだからちょうどいいじゃない、なんていうパズルみたいな話ではない。

 

人ひとりが、一生を添い遂げる覚悟が出来るかどうか、という話なのだ。

 

「恋をしない、つまり、一生ひとりで生きていくという覚悟をまだ持てない。」

『恋せぬふたり』の登場人物がそんなことを言っていた。

「恋をしないからといって、そんな覚悟をする必要もない。」

もうひとりの登場人物はそんなことを答えた。

 

そうやって、限りなく近い認識を持つ人に出会えたら、それは恋愛や結婚と同様に、奇跡のようなことだと思う。

彼らの物語はここから始まっていくわけで、ふたりの認識が近いものかどうかはこれからわかっていくことになるだろう。

 

それであれば、異性でも同性でも、友情や恋愛感情がなかろうと一緒にいるだけで良いというスタンスが続けば、結婚という形を取る必要だってない。もちろんさまざまな弊害はあるのだろうが。

 

ただ、このドラマの登場人物が自分のセクシュアリティについて考えるきっかけとなった出来事は、友人とルームシェアを始めようとしたことだった。

分かりやすく結論から言えば、裏切られてしまう。

「ここが私たちのお城なんだね」と新しい部屋を契約し、実家を出て、新しい家具を買った。そのタイミングで友人が元カレとヨリを戻し、白紙となってしまったのだ。ようやく手に入れられると思った居場所は、住みはじめることさえ叶わなかった。

 

結婚という形を取っても、そうでなくても、お互いの意志が変化してしまえばその関係は続かない。

 

それでもやっぱり、限りなく近い認識を持った人と出会ってみたい。

その出会いが紹介だろうと、お見合いだろうと、偶然だろうと、何でもいい。

だからといって、一緒にいられれば誰でもいいというわけじゃない。

認識が近いふたりで「家族になりませんか?」

そう思ってしまうのは、わがままなのだろうか。

 

このドラマを観て感じることはたくさんあった。

今クールの推しドラマになったことは間違いない。

特別お題「わたしの推し